[Report] Media Studies #01
会田大也《 教育の暴力性とワークショップ 》

中島 百合絵  [RAM2フェロー / 企画制作ディレクター]

7月8日に、ミュージアム・エデュケーターの会田大也さんをお迎えし、geidai RAM2メディア・スタディーズの第一回目が行われました。「教育の暴力性とワークショップ」をタイトルとして、同じ体験を共有するときの観客の物事の受容の仕方・心理の働きといった点を主眼に置きながら、「学び」「主体性」「コミュニティ運営」などについて考えを深めていく4時間半でした。技術・社会面を含めた包括的なメディアリテラシーを身につけるためのメディア・スタディーズとして、後々にもつながるポイントをおさえた第一回目らしい内容だったのではないかと思います。

Media Studies#1

まずは、会田さんの自己紹介の一貫として、YCAM(山口情報芸術センター)などでのワークショップの事例が紹介されました。YCAM はメディアテクノロジーと社会をテーマとしたアートセンターであり、メディアテクノロジーによってどのように行動・身振り・話し方が変容するのか、どのようにそれが社会に使われているのか、というようなことを考えさせられるようなワークショップが多くなっています。遊びによって、参加者の個々の創造性が活かされたり、共同体でのルール作りが自発的に行われたりしている(ようにみえる)ところが印象的です。特にケータイ・スパイ・大作戦(〈ケータイ〉を使った新感覚鬼ごっこ)では、参加者がルールづくりのためのディスカッションとそのルールの実践を繰り返すことによって、マナーの悪さによってつまらないルールが出来ていくことなどを体験し、社会の秩序と自由をどう保っていくかということについて理解を深める仕掛けが施されていました。ここで示されていたのは、トップダウンのルールづくりではなく、エンドユーザーが自分たちでルール作りをする社会秩序の可能性です。

続いて、話は美術鑑賞の方法論に及びます。アート業界では、コンテキストが重視されることがあり、アーティストの意図探しといった点に偏るあまり、「わかる」「わからない」といった極論で思考停止が起きているのではないか。それに対して、もっと自由に作品の読み取り方に広がりをもたせる、ポジティブな教育普及ができないか、といった議題があげられました。

ここで、実際に目に見える情報だけで意見交換をしていくビジュアル・シンキングを用いた、<映画を2回見る>ワークショップを実際にやってみました。鑑賞後に正式にタイトルが明かされましたが、今回持ち込まれたのはサミュエル・ベケットの「FILM」。一回目鑑賞後では、「目」「視線」「見る・見られる」などの主題に近そうなものに注目する人、演技・カメラワークなどの技術的な問題に触れる人、記憶も交えた自身の感じた恐怖感について、また、ワークショップという状況自体に「なにか気づきを発見しろ」といういかがわしさを感じる等のメタ的な意見など、色々なバックグラウンドをもつ人の集まるgeidai RAMらしい様々な感想が飛び出します。それを踏まえたうえでの2回目の鑑賞。展開としては何が起こるかわかっているだけに、次はこれに注目しよう、と各々が決めてそれを追っていたような印象を受けました。2回見てコメントしあうことによって、意見の変わった人、あまり変わらない人といましたが、意見が変わるということは観客側が変化しているということであり、「自由なコメントを共有する」という環境設定だけでも、鑑賞体験に大きな変化をもたらします。つまり作品は、クリエイターのみならず、観客のクリエイティビティも含めて成立しており、作品鑑賞は双方のエネルギーが拮抗している状態が理想ではないかということで話がまとめられていきました。こういった観客側の創造力をのばす、アートを観客のもとに取り戻すという点からさらに、教育を学習者のもとへ、社会を市民のもとへ取り戻すといった話につながっていきます。

教育の観点でいえば、システムとして学校でできることに限界があるとき、オルタナティブな場としてミュージアムを教育施設として使いこなしていくことを会田さんは解決策のひとつとしてあげています。YCAMから生まれた<コロガル公園>では、ホストは環境と場所だけを用意しておき、あとは遊び方・ツール・運営方法などを子供たちが自由につくり拡張していく場所となっています。これは、教育者や作り手のトップダウンではなく、オーディエンスがどう主導権を握れるかといった、オーディエンスを常に活性化させる環境作りというものの良い実験例となっているように見受けられます。

公共の場(税金を使う場面)にアートや表現がもちこまれる際、作り手は必ずしも良いこと・社会に役に立つことをやらなければならないのか、それは本来の創造性を押し殺し可能性を狭めているのではないか、それは表現なのか単なる社会活動なのかというような問題点は常にあるものだと思います。そこで組織的なカリキュラムの改変ばかりを考えるのではなく、個人の活動ででも、そうした干渉を受けることなくその場に主体性を取り戻すことが一種の打開策だと考えられます。<コロガル公園>では、良し悪しや安全といった観点から脱し、自発的な小さな社会づくりが発生しているようにみえます。しかし実際の社会において、こうしたメディアプロジェクトやワークショップを用いることは、どこまで、どんな意味で有益なのでしょうか。

Media Studies#1

最後にかけて触れられたのは、教育やメディアの暴力性についてです。
例えばメディアの暴力性とは、取材される側に編集権や交渉権がないことであり、つまりそれは一方的なコミュニケーションの断絶だと捉えられます。ワークショップにおいても、一方的なその場への圧力がある場合があり、会田さんはその暴力性が評価軸にあるのではないかと指摘しました。定義が曖昧であるがゆえ、町づくりやビジネス等にも導入され、いまや至るところで乱用といってもいいレベルまでに用いられているワークショップ。そうしたワークショップの中に、事前に設定された特定の評価軸を持ち込むということが暴力なのではないか、といった議題です。そうして考えてみると、ワークショップが行われたという事実だけで何にも反映されず、システマチックに消化されていってしまう問題も、それに起因するのかもしれません。そこで、想定外の新しい軸を発見し、許容していくことで、暴力性を受け流すことができるのではないか。そうしたことにより新しい価値観を誕生させ、従来の価値軸を相対化させることこそがワークショップの役割であり目指すべき成果なのではないかということが語られます。

その後の意見交換では、決めなければならない問題があるとき、結論を先のばしにしているだけではないのか、ワークショップのマイクロユートピア的な排他性について、ユーザー・オーディエンスが必ずしも答えを持っていない場合もある、等の意見が出ました。総じてみると、いかに創造性を保ちつつ社会に還元できるのか、共同体の中の共通の価値観を見つけるネゴーシエーションの過程をいかに公開していくのかということが最重要なのかなと思いました。まだまだ議論のつきない話題であり、関係性の構築の中で暴力は必然なのか、正義という名の元の圧力、などへの広がりを示唆したところで、今回のメディア・スタディーズは終了となりました。

文責:中島 百合絵
企画制作ディレクター。イギリスのRose Bruford College, European Theatre Artsコースを卒業。在学中や卒業後、ポーランド劇団Cricot2の中心メンバーだったアーティスト達との共同制作作品をもって、演劇祭等に参加。近年は会社員として、展示会やシンポジウム、配信番組等の企画制作・運営に従事。ライブホール/スタジオ運営にも関わり始め、配信・イベント・ギャラリー・カフェ等の多層的なスペース運用を目指して模索中。

写真:村田萌菜

【開催概要】
http://geidai-ram.jp/event/829/
日時:2018年7月8日(日) 14:00-21:00
会場:東京藝術大学 上野校地 中央棟1階 第2講義室
主催:東京藝術大学大学院映像研究科(geidaiRAM2)
助成:平成30年度文化庁「大学における文化芸術推進事業」

企画:和田信太郎
運営:田中沙季・佐藤朋子
写真:村田萌菜
映像:澤本望
広報:西山有子

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