玄宇民 [RAM2フェロー / 映像作家]
geidaiRAM2のキックオフイベントして開催された本レクチャーでは、ヴィンセント・ムーン、田中功起、高山明の3氏がそれぞれ最近作についてのプレゼンテーションをし、それを受けてディスカッション及び会場とのQ&Aが行われた。本稿ではレクチャー内での3氏の発言をもとに<旅・交換・「他者の言葉」>をめぐるいくつかのトピックを取り上げる。
—カメラを持った男—
ムーンはまず自らのバックグランドが写真であることを述べる。シャイな自分が人とコミュニケートするためのツールとしてまずカメラがあり、デジタルツールの発展と共に写真と同じように動画を撮影することが可能になった時、彼が被写体として選んだのはミュージシャンであった。フェニックスやアーケイド・ファイア、ヴァンパイア・ウィークエンドといった一線で活躍するミュージシャンを街に連れ出し、何が起こるかわからない状況の中演奏する様子を撮影する「take away shows」はのべ100本以上制作される。シリーズの評判が高まるにつれ、本来自分が避けたかったはずの音楽産業やクリエイティビティへの干渉と向き合わねばならなくなってきたこと、そして自分自身の聞いている音楽の変化もあり、彼の被写体はパリの外、世界を旅することへと変化してゆく。それはより人々と「交換」するためのプロセスであったとムーンは述べる。そして最近作として紹介されたのがブラジルの様々な部族の儀式や音楽を追った『HÍBRIDOS : The Spirits of Brazil』である。このプロジェクトは4年以上継続して行われたもので、ウェブ上で閲覧可能な100以上におよぶ個別のパフォーマンス映像の他に、パートナーであるプリシラ・テルモンとの共同で88分の映画という形式でも発表されている。(1)
被写体が変化する中でも一貫しているのはムーン自身が撮影者であるということであり、カメラは被写体とコミュニケートするためのツールであることである(ムーンの言葉を借りれば DIYで、directで、liveなやり方)。カメラを置くことによってコミュニケーションの場を生み出すことはドキュメンタリー映画の文脈において様々な試みがなされてきた。会場で配布されたムーンのプロフィールには「シネマ・ヴェリテ」という語が用いられており、本人からの直接的な言及はなかったものの、シネマ・ヴェリテという語を用い始めたジャン・ルーシュの作品を参照しつつムーンの手法を検討する。
—真実の映画—
ジャン・ルーシュ『ある夏の記録』(1961)はパリの街頭をとらえたショットにかぶさるルーシュ自身のナレーションから始まる。
この映画は俳優と共に作られていない。「シネマ・ヴェリテ(真実の映画)」の新しい実験のために時間をささげた男女によって生きられたものである。
つづくショットではアパルトマンの一室でワインを傾けながらルーシュ及び共同監督のモランが出演者に「人はカメラの前で真実でいられるか」という実験を通して「我々はどう生きるか」という問いにアプローチしたいと撮影の意図を述べる。『ある夏の記録』は被写体が役柄ではなく被写体自身であること、撮影行為の一回性、といった条件を下敷きに「vérité 真実」に到達することを目指すものであった。
ムーンにとっての真実とは、撮影および編集という行為を通して構築されてゆくものではなく「すでにそこにあるもの」であり、彼が繰り返し強調していたのは「即興性」および「リアリティ」というキーワードであった。(2)
それはまず撮影行為における即興性である。ムーンは基本的にパフォーマンスする被写体を1台の手持ちカメラで撮影する。カメラは被写体の動きと「interact」しながら常に動く(ムーンの言葉を借りれば「ダンス」する)。撮影を止めるのは被写体のパフォーマンスが終わった時であり、基本的に撮影者のコントロールの及ばない領域にある。さらにムーンは編集においても即興性を重視していると述べる。オーソドックスな編集行為とは、それを通してある意図やストーリーが伝わることを目指すものであるが、ムーンは自らの編集行為においてひたすら「ナラティブに回収されることを避ける」ことで編集における即興性を目指しているという。それは上映においても意識され、ライブ・シネマというパフォーマンス形式や、京都市立芸術大学ギャラリー@KCUAでの「im/pulse: 脈動する映像」展では3面スクリーンそれぞれに長さの異なる映像をループで投影することで常に新たな組み合わせが生まれる、という上映方式をとっている。
ルーシュの作品が常にルーシュ自身のナレーションを伴っているのに対し、そうした形での(映画的な)ナラティブに回収されることをムーンは極めて意図的に避けている。(それでもなお『HÍBRIDOS』において88分版というオーソドックスな映画のフォーマットを制作した意図については残念ながら説明を得ることができなかった。)
「即興」というキーワードは田中功起からもあげられた。香港において制作された『Precarious tasks #9: 24hrs Gathering』(2017)に引き続き、『Engaged Gesture』(2018)(3)においても田中は雨傘運動に関わった文化実践者にインタビューを行うという形式をとった。このことについて田中は、それが一回限りのセッションであること、即興性・言い澱み・言い間違い・沈黙などを引き出し、そうした「不完全さの集積」による理解に到達するための手段であったと述べている。
田中の映像はムーンとは対照的に三脚に据えられ、意図的に撮影クルーやインタビュアーである田中がカメラに映り込むことが多い。そうした意図の背景として田中はアーティストによる作品のための撮影という行為が搾取の構造をはらんでいることを開示するというひとつの「透明性」を示すため、と述べていた。ドキュメンタリーにおける撮影者の「透明性」は、撮影者の存在を見えなくするという意味での「透明性」が志向されることが多い。アメリカのドキュメンタリー作家フレデリック・ワイズマンはロバート・クレイマーとの対談で以下のように語っている。
クレイマー:私の場合は映画製作のエコロジーとでも言うべきことを考えていて、それはつまり撮影中も常に現実の状況内にいる以上、その状況のエコロジーを決して乱してはいけないということだ。『ウォーク・ザ・ウォーク』のような映画[一応は俳優がフィクションの役を演ずる劇映画である]でさえ、すべて現実の状況内で撮影しているから、もし撮影クルーが大きければ、もし撮影クルーが鈍感なら、もし撮影クルーに[そういう状況内で]働く習慣がなければ、映画はそこに撮影クルーが来たときのことについての映画になってしまい、現場の人々の関心がすべて撮影クルーに向かってしまう。我々は見えない存在になりたいんだ。
ワイズマン:その通りだ。見えなくなりたいんだ。(4)
ムーンの撮影者としての立ち位置はワイズマンやクレイマーのいう「透明性」に近いように思える。「take away shows」の被写体はプロのミュージシャンであり、彼らはパフォーマンスをしている自分たちが見られることを引き受けている人々である。それに対し民族音楽や宗教的な儀式を被写体とした近年の作品では撮影による搾取、という行為が改めて問われることとなる。ムーンはそうした指摘に対し現実を物質的な側面でしか見ていないのではないか、と述べた上で自らは撮影行為によって金銭を得ているわけでもなく、撮影した映像を被写体に渡し、それを彼らが売ったり上映したりしてお金を得てもいい、というルールを自らに課していることを述べた(ムーンの映像はほとんどがクリエイティブ・コモンズ・ライセンス付きで公開されている)。
田中はムーンへの更なる応答として、精神的なものや創造性といった非物質的なものも含めた搾取は、その構造を開示することによってしか解決できないのではないか、と述べる。田中の指摘する「透明性」は『ある夏の記録』でフレームの中に映り続けたルーシュとモランによっても意識されていた点であろう。
ギニア湾の漁村の様子をとらえた『MAMMY WATER』(1956)や犬殺しを伴う「ハウカ」の儀式を追った『THE MAD MASTERS』(1956)においてはあくまで「ナレーター」でありフレームには登場しなかったルーシュは、階級や人種を主題にした『人間ピラミッド』、そして『ある夏の記録』においてフレームの中に自らが現れることを選択する。それは現場の力学を露呈させる、「透明性」を志向する行為であった。ルーシュがアフリカからフランスへと作品の舞台を移動させて行ったのに対し、ムーンはフランスを後に世界各地へと旅立ってゆく。トライバルなものを被写体として選択している点は両者共通しているが、ムーンの映像においてはナレーションや映画的なナラティブは排されている。
—言語、インタビュー、身体性—
『Engaged Gesture』におけるもう一つのポイントとして田中はインタビューを英語で行ったことをあげる。それはローカルな状況を知らない他者である田中に対し、インタビュイーが非ネイティブな言語によって回答をする、ということによって生まれる困難さを意識した上での選択であったという。
高山明の『Our Songs –Sydney Kabuki Project』(2018)(5)は歌、詩、言語を取り扱った映像作品である。様々な国、地域からシドニーにやってきた人々が自らの携えてきた「うた」をシドニー・タウンホール内に設えられた空っぽの客席に向かって歌うさまを撮影した作品で、4時間を超える映像には英語以外のおよそ30言語、58人の人による「うた」のパフォーマンスが収められている。レクチャーで見ることのできた抜粋ではアボリジニのルーツをもつ男性がガディガル語の詩を朗読していた。映像に字幕は乗せられておらず、鑑賞者はその言語の理解できなさも含めて彼らのパフォーマンスを体験する。田中の作品において「非母語」が鍵になっていたように、この作品においても言語が鑑賞者、撮影者の立ち位置を意識させるための要素として機能している。
ムーンの『HÍBRIDOS』プロジェクトも映像から字幕が排されているのであるが、ムーンの作品における映像と鑑賞者をめぐる問題意識は、田中や高山のそれとは異なった場所にあるように思える。田中の作品は香港で撮影をし香港で展示され、高山の作品もシドニーで撮影されシドニーで発表されている。それに対しムーンの作品は世界各地で撮影された映像が、ウェブ上で発表されていく。想定される鑑賞者は時間も場所も限定されていない。「inter-view」や「inter-act」の意味するものは大きく異なることとなる。
ここで改めて立ち返りたいのは、ムーン自身が撮影者であるということである。ルーシュも、田中も、高山も、撮影は他者に委ねた上で、撮影行為をめぐる「エコロジー」や「力関係」を設計している。それに対しムーンは、撮影地に赴くのも、撮影をするのも、編集をするのも基本的には彼自身、彼ひとりである。旅先でインスピレーションを得ること、撮影という「ダンス」、これはムーンという個人が世界と、被写体と「交換」するプロセスである。ムーンの身体を通過した映像はクリエイティブ・コモンズとしてウェブ上に放たれ、新たな交換可能性をはらんだものとして公開される。これはデジタルツールの発展が可能にしたDIYから始まる映像の「エコロジー」である。こうした個人を媒介にした「映像のエコロジー」が果たして鑑賞者とどのような関係性を結び、交換、あるいは相互作用することが可能なのかをめぐっては、まだ実験の余地が十分に残されているように思える。
ムーンのアプローチはひょっとすると「ドキュメンタリー」とは関係がないのかもしれない。彼の発言から伺えたのは「カメラを持った男」が世界とどう関係性を結びつけるかという試行錯誤の実践であるといえる。
ここで個人の関心に引きつけると、では「カメラを持った男」として世界に向き合うことで初めて生み出されるフィクションというものがありうるだろうか、それをどのようにすれば鑑賞者と「交換」することが可能なのだろうか、そのような問いについて考える契機となったフォーラムであった。
1 http://hibridos.cc/
2 フォーラムの後半でムーンはテレンス・マッケナの「Reality is a game to play with. Don’t take it seriously」という語を引用していた。
3 https://www.artsy.net/artwork/koki-tanaka-engaged-gesture
4 山形国際ドキュメンタリー映画際 DocBox https://www.yidff.jp/docbox/12/box12-1.html
5 https://www.biennaleofsydney.art/artists/akira-takayama/
文責:玄宇民
映像作家。東京生まれ。生まれた地を離れた人々のありようと移動の記憶、マイグレーションをテーマに韓国と日本で映像作品を制作。最近作は戦前の日本に暮らした韓国人女性飛行士の足取りを俳優と共にたどる『未完の旅路への旅』(2017)。2016年以降ソウル独立映画祭 (韓国)、Taiwan International Video Art Exhibition(台湾)、ディアスポラ映画祭(韓国)で作品上映。東京大学文学部美学芸術学専修卒業。東京藝術大学大学院映像研究科メディア映像専攻博士後期課程修了。http://vimeo.com/woominhyun
【開催概要】
http://geidai-ram.jp/event/295/
会場:東京藝術大学(横浜・馬車道校舎)大視聴覚室
日時:2018年6月7日(木) 19:00-21:00
主催:東京藝術大学大学院映像研究科(geidaiRAM2)
共催:アンスティチュ・フランセ横浜、
平成30年度文化庁「大学における文化芸術推進事業」
企画:和田信太郎
運営:田中沙季・佐藤朋子
広報:西山有子
記録ディレクション:村田萌菜
映像:上原彩
写真:李和晋・和田信太郎